おい!人間!

それぞれがもつ厭世観には、それぞれの度合いが有りそうだ。少ない経験から判断すると(時には少ない経験や知識の方が的を得ている。物事なんて別けてしまえば少量の塩みたいなもんだ)普段の生活の中でまともな面を操作出来る人間ほど−巨大なものなのかもしれない。

反動でそうなるんだ。反動?そうか。俺はよくこの言葉を使うが(脳が未発達なんだ)こんな考えじゃ永遠の繰り返しと錯綜の中からでれない気がする。

このような事柄を考える事によって、俺はうまくやっているのかもしれない。同時に階段を上り下りしている(それが趣味のごとく)惨めな男になっている。俺は自分の事を「俺」なんて呼ばずに人間と呼べばいいのかもしれない。

「おい。人間。」

そうすれば俺の肩こり、首こりは直り、リンパが腫れる事もなくなり、軽くなるかもしれない。

−疎外と厭世−

以前こんな詩を見た気がする。

俺がもし、幾分でも何か言えるのならー疎外と厭世ーみたいなタイトルの詩は書かない。そんな甘えたような、他人任せのような、誰の足で立っているのか分からないような責任転嫁の詩はいらない。

都内の女

紛い物の造形品を眺めている女がいた。都内の美術館で。彼女はそれが、紛い物であると知っているのか知らないのか、俺には分からないが、とにかくただ観察していた。俺は彼女を。彼女は造形品を。

ある程度、煙草一本分の時間が流れた。俺の目線は尻からじりじりと登り(いくら努力した所でじりじりと)顔を見た。

彼女は−泣いていた。
感極まって。

言わなかった俺は。
それが、フェイクだとか、世界はジョークだとか、涙はナルシズムだとか。

それから2日間、俺は何かに取り憑かれたように悩んでいた。

もちろん、3日後はけろっとして、部外者を決め込んでいる俺。

今になってふと思う。触れなくてよかったのか。本当に。

女の尻に 
いやこれはジョーク
あの2日間に本当は決断するべきだったのかもしれない。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが
ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子さんからの引用

いくらか前に朝から「学校の挑戦」をたまたまみた。その中で上の詩がながされた。当たり前の事を言っているが、最後の自分の感受性くらいのくだりで温かさを感じる。人の衝動を制御する方法か。一体なんだろうな。

自分の感受性くらい
自分で守れ

この部分がいい。こうゆう突き放し方が好き。ちなみにそれを見た日は、一日中興奮していた。

家族

俺は今、随分と古くて縁の深い家に住んでいる。叔父とその妻(俺からすればたぶんおばさん)がすんでいた家に。

叔父は亡くなったが(俺が餓鬼の頃によくドラエモンのビデオを借りにいった)、叔母は生きている。最近、よく会う。なぜか、なぜか俺は、あの叔母の家庭に凄まじい憧れを感じる。家族は叔母と、3人の子供、その一人はバツイチ、子供1人あり。

なぜだろうか。

この家族が帰っていくと俺は寂しくなる。一つ見間違えれば、悲惨な心持ちになる。自信があるとか無いとか、それ以前の問題。

俺はきっとあの家族のようになれないだろう。

なにも悲観して言っているんじゃない。なれないなら、ならないでいい。他をいく。きっと俺があの家族に対する羨望は、甘えの一種だろう。

俺は他をいく。

それ以外のどこでもいい。なんでもいい。ただ−成長しようと望むなら、俺はうまくやりたい。もちろん。俺はあの家族と1%だけ違った家族模様を描く努力をするだろう。その1%が俺のプライドだろうから。

甘い匂い

バスターミナルの公衆電話の先にベンチ。その手前で俺は乞食と戯れていた。俺はとても、当時の時代性を考えれば、相当臭っていた。乞食は俺と同じような−

比喩でも何でもない。

本当に俺と同じような−不思議な親和感があり、誰もがそれを認めていた。これは比喩だが、誰もの内蔵に、ある種の混沌と恍惚が眠っている。

そこの貴族もそこの土方もそこの公務員も−そして俺。俺の倒錯。いや俺の内蔵だ。人は内蔵から腐っていく。生まれてくる時から腐っていた、なんて言うつもりはない。

それぞれに何かがあり、何かを感じ、何かを決断する。それを重大に悩む俺達(俺と乞食)はまだ気がつかないでいる。俺達は明日を、明日をと悩んでいる。気がどうにかしていると錯覚する。錯覚を認知しようとする俺達。

まだ気がつかない。

哀れな俺達。なあ、手段はあるだろうか。俺達がバスターミナルから離れ、乞食は乞食のままで、俺はちゃんとして、そうできる手段はあるか?俺達の内蔵は生まれた時から腐っている。

大海の縮図

疑問の多くがふとした瞬間にわき出てきます。それも根源的な問いです。大海の疑問です。人はこれを哲学などと言いますが、僕には分かりません。

文学もわかりません。
学問もわかりません。
足し算が出来る程度なんです。


けれどもし僕が、奇妙な数学の文法が出来る人だとしたら、この多くの疑問は解決されたでしょうか。それこそ皮肉な疑問です。一体今の時代に生きている僕らが、なぜこうなっているのか。戦後に生まれれば違っていたでしょう。でも何の縁か今この時代に生きています。

人が物事についての本当の理解を得られる日は、いったいいつなんでしょうか。

何千年後に果たして得られていますか?そもそも答えとゆうのは、立ち位置を決めて出すものです。立てる場所もない僕が一体なにを言っているのか…甚だ疑問です。これはちょっとしたシュールな疑問です。

民衆を救う

最近読んだ本にはこんな事が書かれていました。人生を有限と考えるか無限と考えるか。その本では無限と書かれておりました。人は生まれて灰になるまでが人生だと思います。けれども違う本には、例に仏法系列の本ですが、無限とあります。

言語の問題は置いておいて確かにそういった考えも可能です。が、実証がないし霊や魂といったものは目には見えない。本には夢心地のような理論が展開されております。もし僕が人生を無限と考えているなら焦りも憤りも減少することでしょう。

けれども一般的な僕の感覚では、それはすなわち諦めているような気もするのです。諦める為の理論のような気がします。本当に万人に一つの思想を定着させる事が、また信望させる事が可能でしょうか。

うまくやれば(色々な作戦と知能があれば)可能です。

けれどもいったんそうなった所で、どこに永遠にその契約が続くという保証があるのか。人は自分の選択により生きています。当然止める事も出来ないでしょう。この点がどうもしっくりこないのです。霊魂が永遠に生き延びるなどというのは、あてつけの理論(これはもう創作の域)ですよ。

こんな事を書いているととたんに宗教批判者のごとく写ってしまうから文字って怖いですね。批判だなんてとんでもない。僕がもう少しまともなら(皮肉かもしれませんよ?)狂信していたんだと思います。

宗教の本質はおいておいて、悪くはないと思います。三大宗教(最近宗教という単語を書くのが億劫です)はどれも素晴らしいです。人間関係やそのたもろもろについて。認めています。けどその戒律を守らずに生きている人を多く見てきた僕は思うんですよ。

なぜその戒律が「絶対」であるのか。

得に宗教の常套句には「信じない者は好きにやりなさい、又は地獄に堕ちる」などとある。これは無責任であり理論の放棄であり勝手気ままの証でもある。神とゆう概念、古代の書物、キリスト、釈迦、多くの聖職者とその従者は幻ではないのでしょうか。

それともただ単に僕が子供じみているのでこのような欺瞞を見逃す事ができないのでしょうか。

本当の教えや救いというのは好き嫌いも、気にいろうがいるまいが、全ての人をくみ上げてくれる思想ではないのか。その点、宗教とゆう分野はよく分からない。

僕の言っているのは理想でしかなく幻影を追っている馬鹿者かもしれない。

ただどこかの狂信者のような振る舞いは僕には出来ない。これはどんな分野にも言えるが不幸であります。本当の不幸である。これを幸福と思われる人は僕と変わってください。人格を入れ替えましょう。

しかし、全ての人をくみ上げる思想なんてのは存在するのでしょうか。

話は戻りますが僕は宗教からはずれた人達を見てきました。その人達は地獄人なのでしょうか?裏切りの刺青でも入っているのでしょうか?そんな事はありません。こういうふうに考え出すと宗教とゆうのは本当に手の込んだ嘘のように見えます。

もし自分の親が宗教とは無縁の人間(特に人生一般において)だとすれば、その親の子供達はどうなるのでしょうか?その子供達は親を地獄人と見て育つのでしょうか。そんな馬鹿な話が過去にあったでしょうか?そしてその子供達が悲惨な目にあっていたら、その親の子だということでほおっておくのでしょうか?

宗教団体のお偉いさん達は目の前で苦しんで飢えている子供に「お前は私の思想を信じていない。当然の報いだ」と言うのでしょうか?馬鹿げています。この話は本当にしゃれにも冗談にもなりません。ただの妄想話です。本当にこうゆう話に入ってしまうと際限がなくなります。熱っぽくなってしまいますしね……